おはようございます。
今日は、歴代誌下32:1-23でした。
歴代誌下は、29章からヒゼキヤ王の国内の宗教改革が進んでいく姿を見て来ました。
32章は、今度は、国内ではなく、国外の問題に取り組みます。
ここで、ヒゼキヤ王は最大のピンチを迎えることになります。
2節に書いてある通り、アッシリア王のセンナケリブ率いる18万5千人の軍隊にエルサレムは攻められるのです。
イスラエル軍が普通に戦っては勝てない相手ですから、ヒゼキヤ王は籠城することにしました。
その準備を用意周到にしている姿が4、5節に書いてあります。
準備は万端整いました。
しかし、ここにセンナケリブは、心理的な揺さぶりをかけてきました。
それが9節からの内容です。
手紙を送ってヒゼキヤ王の心を揺さぶり、そして城壁の外からも大声で民を動揺させる言葉を宣伝し続けました。
古代の戦闘は、人と人の戦いというよりは、その国の神と神の戦いの意味がありました。
ダビデとゴリアテの戦闘の時も、結局、侮辱していたのは双方の神だったわけです。
17節にあるとおり、センナケリブも、イスラエルの神が民を救うことは出来ないとけなして終わっているのです。
ヒゼキヤ王は、何よりも徹底的なリアリストです。
戦争が起こるとなれば、ただ主に祈ったり、他の国に助けを求めたりせずに、戦略的に動きました。
籠城において最も大切な水を、500メートル以上の水路を掘って確保しています。
城壁を堅固なものとして、投げやりを作って、籠城戦において有利に戦いを進めようとしました。
それと同時に、一方で、ヒゼキヤ王は、熱い信仰の心を持っていた王でした。
歴代誌は、神殿に祈りに行く場面を、さらりと書いています。
実は、列王記下19章には、もう少し詳しい状況が書いてあります。
列王記下19:1『ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。』
自分とイスラエルの神を侮辱されたときの怒りと憤りを爆発させました。
神殿にあらぬのをまとっていくということは、自分が何もできないみすぼらしい存在であることを告白している姿です。
さらに、列王記下19:14『ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、』
これがヒゼキヤ王の祈りの姿です。
象徴的なのは、このアッシリア王からの手紙を読み、そのまま主の前に広げたことです。
ヒゼキヤは、リアリストであり、自分で状況を判断し、計画し実行できる実力者でした。
しかし、祈りの時、彼はその自分の能力を用いませんでした。
自分の置かれた状況を、分析することなく、そのまま、主のみ前にもっていきました。
主は自分の環境を誰よりもよくご存じであるという、主への深い信頼です。
主は自分の状況を作り変えてくださる方であるという、強い信仰の表れです。
この祈りの姿勢こそ、私たちが学ぶことではないでしょうか?
様々なことが私たちの目の前で起きます。
もちろん、喜びと感謝なことも起こりますが、時に、苦しいこと、悔しいこと、憤ることが起きます。
しかし、すべてを主の御前に、そのままおゆだねし、主が働いてくださることを期待するというのは、なんと恵まれた信仰の態度でしょうか?
今日の全てを主にお委ねし、主が働いてくださることを祈りましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。