おはようございます
今日は、歴代誌下33:1-13でした。
ヒゼキヤ王の息子マナセは、悪王として、記録されています。
列王記下23:26では、彼の悪行によって、エルサレムが滅ぼされることが決定的となったと評価されています。
列王記と歴代誌のマナセ王の悪行の部分はほとんど同じに描かれています。
ただし、列王記と歴代誌の違いは、マナセ王の悔い改め後の記述があるかどうかです。
列王記は、なぜエルサレムが滅びなければならなかったのかという視点の元書かれているために、マナセの悔い改めはあえて書かなかったのです。
一方で、歴代誌は、捕囚された者たちがどのようにエルサレムを再建するための視点を持っているため、マナセの悔い改めを描きました。
マナセ王の悔い改めは、一言で言うと、イエス様の放蕩息子のたとえそのものです。
偶像礼拝していたものが、バビロンへ連行されて、悔い改めて、エルサレムへ戻ってくるからです。
特にアッシリアによって連行された先が、ニネベではなく、バビロンであったことは象徴的です。
これはバビロン捕囚に繋がっていき、捕囚からの解放、そして帰還を象徴しています。
何よりもバビロンという都市の意味は、虚しさという名前の神を守り神としていました。
マナセは自分がしてきたことが空しものであったことを、虚しさの溢れるバビロンで悟ったのです。
12、13節が非常に重要な場所です。
『(12)彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、(13)祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。』
苦悩の中、主に願い、へりくだり、祈り求めて、エルサレムへ帰還する。
この一連のマナセの歩んだ道は、バビロン捕囚のユダヤ人たちが歩んだ道と同じになりました。
まさに、バビロン捕囚から戻ってきたユダヤ人たちは、自分たちがマナセと同じであったという信仰を告白するのです。
そういう意味で、マナセは預言者なのです。
預言的にバビロン捕囚と、その開放を表して、主に大いに用いられました。
マナセの物語自体が、慰めの物語です。
どのような深い罪があったとしても、悔い改めて、主に立ち返るならば、主は回復してくださるからです。
そもそも、マナセという名前は、創世記にでるエジプトに売られたヨセフの長男の名前と同じです。
このときの意味は、「神が私のすべての労苦と、私の父の家とを忘れてくださった」というものでした。
人間の罪を、忘れるという神の行為が、人間にとっての祝福でした。
マナセ王は、その名前の通り、自分の犯した最悪な偶像礼拝の罪を、憐みによって神に忘れて頂いたのです。
もちろん、マナセの偶像礼拝によってバビロン捕囚されることが、決定的となっています。
一方で、マナセは自身の悔い改めを通して、バビロン捕囚からの解放、回復をも同時に表すものとして用いられました。
裁きと回復を同時に啓示する、つまり、イエス様の十字架の死と復活がここに、啓示されています。
裁かれる瞬間も、回復される瞬間も、それは全てイエスキリストの光を強めているのです。
神の忘れる(マナセ)祝福、イエス様の十字架の死と復活の祝福が、今日も私たちにあることを信じて期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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