おはようございます
今日は、歴代誌下35:1-19でした。
ヨシア王の過越祭の姿です。
律法には過越祭を毎年祝うようにと書かれていますが、旧約聖書で過越祭の記述は非常に少ないです。
モーセ、ヨシュア、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤ、そして最後にバビロン捕囚から戻ったエズラだけが記録されています。
王だけだと、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤの三人しかやっていません。
ヨシヤ王の時代には、既に律法の書がごみのように忘れ去れていた状態でした。
ですから、一般的なイスラエルの民は、全くもって聖書を知らない状態だったのです。
ヨシヤという名前から預言的な名前です。
ヨシヤは「主はあきらめた、主は失望した」という意味を持っています。
もう、主はイスラエルに失望して滅びを定め、バビロン捕囚を定めていらっしゃる。
そのことをヨシヤは人生をもって預言したのです。
自分の名前に「主は失望した」と付けられたら、私たちならどうするでしょうか?
旧約聖書では、とても興味深いことに、裁きという預言的名前をつけられた有名人がもう一人います。
それは創世記5章に出るメトシェラです。
彼の名前の意味は、ずばり「裁き」という意味でした。
彼のお父さんであるエノクは、メトシェラを見て、主に従うようになって、天にとられたと書いてあります。
しかも、メトシェラは聖書の中で最も長生きする人として知られてもいます。
そして、彼が死んだ次の年にノアの箱舟の事件が起き、本当に徹底的な裁きがやってきたのです。
メトシェラは、恐らくノアの時代に、主の裁きを預言し、悔い改めをメッセージしていたのです。
今日のヨシヤ王も、主の失望が確定しているという状況の中で、もう一度主に立ち返ることを勧めています。
律法の書を見つけ、盛大に過越祭を祝っているヨシヤ王の姿は、主が失望した民の罪を過越すために、悔い改めの大きなムーブメントを起こそうとしているわけです。
全ての王の中で唯一、彼だけが民に惜しまれてこの世を去った王でした。
それほどに、民に愛され、神に愛されたヨシヤ王だったのです。
ヨシヤ王の過越祭は、ヒゼキヤよりも盛大なものでした。
18節で評価されているように、サムエル以降で最も盛大なものだったのです。
しかも、非常に重要なポイントは、7節にあります。
7節『ヨシヤ王は民のために羊、小羊、子山羊を提供した。これらは皆、そこにいるすべての人の過越のいけにえのためであり、その数は三万匹、牛も三千頭に及んだ。これらは王の財産の中から提供された。』
民がささげるための羊、子羊、子ヤギを追う自らが提供しました。
民は、捧げものを自分で準備することなく、王からプレゼントとしてもらったものを捧げ、自分の罪の贖いとしたのです。
このようなことをした王は、どこにもいません。
そして、これは過越祭の時に、捧げられたイエスキリストをそのまま表現しています。
つまり、王自らが、捧げものを提供し、民がそれを捧げるという構図です。
王の王である神ご自身が、ご自分を捧げものとして私たちに提供してくださった。
そして、私たちはそのプレゼントされた捧げものによって、罪を贖ってもらった。
イエス様が私たちの罪を贖うために、私たちが準備したものは一切ありません。
全ては主から来たプレゼントとして、私に与えられた祝福、恵みなのです。
確かに、ヨシヤという名前の通り、イスラエルが主を失望させた結果、裁かれることは決定されたことでした。
しかし、避けられない裁きを前に、過越のいけにえを通して、主が民の罪を贖ってくださる確信をヨシヤは信じていました。
裁きの先にある回復を待ち望む信仰が、この過越祭において表現されています。
これと同じように、私たちの罪は、私たちの体に死をもたらすものです。
しかし、イエスキリストの贖いは、信仰によって、霊によって生かしてくださっています。
主は私たちが贖われ、復活する希望を、過越祭のいけにえである、十字架によって永遠に見せ続けて下さっています。
イエス様を今日も私の真ん中にお迎えし、十字架の死と復活を祝う私となることを信じ期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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