おはようございます
今日はマルコ4:21-29でした。
マルコの4章は全体が神の国のたとえを話している個所です。
全てのたとえ話が、神の国を表していることを忘れては、何の意味もありません。
21節のともし火のたとえも、神の国を表現しています。
面白いのは、「ともし火を持ってくる」に使われている、「持ってくる」という動詞が他動詞ではなく、自動詞だということです。
普通、ともし火は自分で移動することは出来ません。
誰かによってともし火は移動させられる必要があります。
しかし、ここでは、象徴的にともし火が「自ら、来る」と表現されています。
ですから、このともし火こそが、世に来たイエス様ご自身なのです。
旧約時代では隠されていた真理、イエス様というともし火がやってきたことによって、明るく照らされました。
そして、イエス様ご自身こそが、神の国です。
神の国はやってきて、すべての人に見えるようにされたのです。
「あなた方は、世の光」という言葉も、私たち自身が、光であるわけではありません。
私たちが新しい人として生まれ、イエス様の似姿と作り変えられた時に、イエス様の光がそこにあるということです。
このように、このともし火のたとえは、イエス様は隠されたままにされない、神の国は必ず外に現されるということがポイントなのです。
神の国が来ました。しかも、言として来ました。
ですから、その言を聞くことこそが、最も大切なことでした。
言であるイエス様を受け入れる、信じることは、聞くことそのものだったからです。
何度も、聞く耳のあるものは聞きなさいとイエス様がおっしゃったのは、信仰を勧めていることばです。
イエス様に多く聞くものは、さらにイエス様から聞くことがまし加わります。
神の言葉に耳を傾ける心、開いた心は、更に大きく開かれるのです。
そして、もう一度、種まきのたとえを持ってこられます。
種は神のことばでした。
神の国が成長する原因は、種がまかれる私たちの心にあるわけではありません。
どんなに頑張っても、種から目を出すことが人間にはできません。
その力は、種の中に既に宿っているのです。
これは、ともし火のたとえと、全く同じことを言い換えているだけです。
私たちが、ともし火をともすことが出来ないのと同じく、私たちが神の言葉の種を成長させることは、できないということです。
では、私たちにできることは何でしょうか?
それはともし火を消さないこと、そして、種の成長を妨げないことです。
火は、ある場所に閉じ込めてしまうと、空気が無くなってしまい、消えてしまいます。
種は、水や温度や光などの条件がそろわなければ、芽を出すことは出来ません。
非常に面白いことですが、植物にとって人間の手に触れられるということは、ストレスでしかないのです。
しかし、そのストレスを受けなければ、強くなることが出来ず、きれいな花を咲かせることが出来ません。
毎日、手を触れて、ストレスを与えてあげることが、植物には重要です。
といって、水をあげすぎたり、肥料をあげすぎれば、植物はすぐ枯れてしまいます。
植物の管理はとても難しいことです。
ただ、もう1つ私たちが忘れてはならない事実は、農夫は誰か?ということです。
その農夫は、まさにイエス様でした。
この神の国の成長に手入れをなさる方にどれだけ委ねられるか、が大切です。
この恵みの手を信じて、存分に神の国が成長することを見て体験する今日一日となることを祈ります。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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