おはようございます
今日はマルコ6:14-29でした。
今日の個所は、一言でいえば、人間の罪のカタログです。
優柔不断で、この世と、真理の両方を愛し、ふらふらするヘロデ王。
彼は、メンツを気にしすぎて、人の命を奪います。
自分を非難したからと、憎しみを持ち殺人を企むヘロディア。
彼女はあろうことか、子供を自分の目的達成のために、しかも殺人のために用います。
母の言うことだからと、人を殺すことを何とも思わないサロメもいます。
3人の登場人物が、それぞれの考えで動いていますが、人間の罪の悲惨さがここに集まっています。
今でも、私たちの現実のニュースの中でも聞こえてきそうな物語でしょう。
もし、主がなさるなら、洗礼者ヨハネが殺されないで済んだシナリオもあったはずです。
しかし、罪人たちを、そのままにしておくことを通して、罪の醜さがクローズアップされるのです。
もちろん、このように罪を見せられながら、私たちは警告を得ることが出来ます。
私たちは、ヘロデ王のような世と神の両方を愛するような優柔不断に気をつけるべきです。
私たちは、ヘロディアのような自分とは違う人を憎み、ねたむことに気をつけるべきです。
私たちは、サロメのような主の御心に背く形での従順に気をつけるべきです。
そのような罪に出会うたびに、すぐに悔い改められるように、主が導いてくださることを祈るべきです。
ただ、一方で、このシーンの中には、罪の醜さと共に、神の計画の美しさがあります。
洗礼者ヨハネの処刑の経緯が、何かに似ていることに気が付かないでしょうか?
このシーンで、ヘロデ王をポンティオピラトに変えて、ヘロディアとサルメをファリサイ派やサドカイ派に変えれば、そのままイエス様の十字架の処刑と同じシーンとなります。
この洗礼者ヨハネの処刑のシーンは、まさに、イエス様の十字架を表現したものです。
罪人のたくらみ、計画、そのような醜いものを見せながら、その中にこそ、主の美しい計画、イエスキリストを表現する主の御言葉の啓示があるのです。
罪が行われているど真ん中で、まさに罪の贖いの御業が語られているのです。
私たちは、罪を犯さないことを第一に考えるべきです。
一方で、罪のまし加わるところには、神の恵みがまし加わるという使徒パウロの話を聞くべきです。
自分の罪をみて、落胆し、悔しく思ったり、他人の罪を見て、批難し、指摘したり、私たちはしてしまいます。
しかし、主なる神様は、全く違う計画と御心をお持ちなのです。
その罪が、私の罪であろうが、他人の罪であろうが、その中心には、神の計画があり、贖いの御業が語られています。
深く、大きな罪であればあるほど、十字架の輝きは、さらに強く強く表現されます。
だから、私たちは、祈らなければなりません。
私たちが罪から離れるように祈らなければなりません。
そして、何より、罪を体験したときに、実にそのど真ん中に主の美しい計画、贖いの御業が表されていることを信じ、その罪の中に主の栄光見せてくださいと、祈らなければなりません。
もう一歩、主の御心にそった祈りをする私たちとなることを願います。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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