おはようございます
今日はマルコ8:1-13でした。
今日の個所では、頑なな心の弟子と、頑な心のファリサイ派が描かれています。
4千人に食べさせるイエス様の奇跡は、マルコとマタイにしか記録されていません。
大勢に食べさせた奇跡は、一回だけで、それがふたつの出来事として記録されたと考える人もいるようです。
しかし、細かい設定が違うことを見れば、違う出来事であったと考える方が自然です。
むしろ、このように人たちに食べさせる奇跡は、2回以上行われて、目立っている2回分だけを描いたのかもしれません。
マルコが、この4千人に食べさせる出来事をわざわざ書いたのは、弟子たちの不信仰を浮き彫りにするためでした。
つい少し前に、5千人を食べさせているにもかかわらず、弟子たちは同じ反応をイエス様にしています。
弟子たちは、奇跡と言える御業を2回も見ているのに、その心は頑なで、イエス様のことを全く信じていないわけです。
しかも、この少し後には、パンが足りないことで議論し、喧嘩しています。
そして、その後のファリサイ派も、同じく心が頑なな者たちとして、マルコは記録しています。
4千人を食べさせた後に、ファリサイ派が印を求めているのを書くことで、さらに強調しています。
天からやってきた、命のパンであるイエス様に向かって、天からの印を求めているのです。
印を求める姿勢は、信仰を求める姿勢にもつながりますので、批判の対象ではありませんでした。
イエス様が嫌ったのは、ファリサイ派は、イエス様を否定するために、それを求めているということです。
たとえ、どんな素晴らしい御業が目の前で行われたとしても、彼らは、イエス様に議論をふっかっけて、否定したでしょう。
信じるために御業は行われるのですが、逆に、彼らは信じないために御業を求めました。
マルコは、この4千人に食べさせるときの弟子たちの不信仰と、ファリサイ派がしるしを求める不信仰と、同じ種類であると言いたかったのではないでしょうか?
弟子たちは、何度も何度も御業を見ました。
しかし、弟子たちにとって御業は、信仰に繋がらないナンセンスなものでした。
同じく、ファリサイ派も、信じないために御業用いるという、ナンセンスをしていたのです。
弟子たちは、実に、自分たちが信じたいメシアを求めていました。
自分たちの信じたいメシアは、これこれこうであるはずだ、イエス様にも、はやくそうして欲しい。
5千人に食べさせたり、4千人に食べさせる憐み深さは、弟子たちの信じたかったメシアではなかったからです。
敵を倒して、もっと力づよい権力を持っているメシアじゃないと、いけなかったのです。
だから、自分たちの信じたいメシア像と離れている実際のイエス様を見たときに、彼らの心は頑なになり、信じることができませんでした。
事情は、ファリサイ派も同じです。
彼らも、彼らなりのメシアへの信仰はありました。
ファリサイ派も自分の信じたいメシアだけを本当のメシアだと考えました。
だから、そこから離れているイエス様を否定しようとしていたのです。
弟子たちの不信仰は、後にユダの裏切りによって明らかにされます。
ファリサイ派の不信仰は、後に十字架へイエス様をつけることによって明らかにされるようになります。
私たちは、この「自分の信じたいものだけを信じる」という頑なな態度に注意しなければなりません。
イエス様を知っていると言っても、自分勝手にイエスキリストを信じてはならないのです。
私と出会ってくださる、イエス様そのものを、聖書から見て取れるイエス様そのままを信じる必要があります。
イエス様が、私の都合のいいように曲げられて、現場に適用されてはいけないのです。
私の都合ではなく、イエス様の都合のいいように、される必要があります。
まさに私たちはイエス様に従順する立場で、従わなければならないのです。
心を頑なにするのではなく、イエス様をそのまま信じ、そのまま私の人生で働いてくださることを願う一日となることを期待します。
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