おはようございます
今日は、マルコ8:14-26でした。
4千人を食べさせる御業を見た弟子たちの不信仰、そしてファリサイ派の不信仰が続きました。
マルコは、更に弟子たちの不信仰をもう一つ記録して、それから、その不信仰の解決をその後に記します。
あれほど有り余るパンがあったにもかかわらず、弟子たちはパンを忘れました。
パンがないことで、議論するようになります。
一方で、イエス様はヘロデ派とファリサイ派のパン種に気をつけなさいという話をされておりました。
パンにかけたシャレの聞いたたとえ話であったのです。
しかし、弟子たちは、自分たちが叱られているような気がして、誰が悪いかを議論していたのです。
18節にイエス様の叱りがまとまってます。
「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」
弟子たちは、イエス様の御業を目の前で見て、メッセージをその耳で聞き、御業を何度も体験したにもかかわらず、見えても、聞こえても、覚えてもいませんでした。
弟子たちの目は、閉じられたままであり、耳も塞がれたままであり、頭は働いていないままだったからです。
どうすれば、イエス様の真実な姿を見ることが出来て、イエス様の御言葉を聴くことが出来るのでしょうか?
この逆転が、22節から語られます。
22節からは、ある盲人が癒されるシーンが出てきます。
耳の聞こえない人が聞こえるようになり、盲人の目が開かれるようになることが神の救いの証しでした。
だから、これこそがファリサイ派が求めていた天からのしるしでした。
そして、なによりも目があっても見えない弟子たちに対する、しるしでもあったのです。
つまり、イエス様によって霊的な目が開かれなければ、イエス様の御業を見ることは、出来ないということなのです。
しかも、この盲人の癒しは段階的に行われていることが特徴的です。
2段階で目が完全に見えるまで癒されてます。
真理が見えてくるようになるには、このような段階を経る必要もあるということです。
本当に真理をマジで見るその瞬間は、天国に行ったときです。
しかし、それまでは、イエス様との交わりの中で、だんだん真理が見えてくるようになっていくのです。
25節「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」
何でもはっきり見えるようになるには、イエス様が何度も働かれる必要があります。
私たちの罪人の目では、どこに主の御業があり、どこに主のご計画が隠されているのか、見えてきません。
私たちの耳では、主の御言葉を聞くことも、その恵を覚えておくことさえできません。
しかし、光である主の中で歩んでいるならば、闇は照らされます。
その光によって、どんどん見えるようになるでしょう。
どんどん聞こえるようになり、どんどん主の御業で記憶が溢れるようになるでしょう。
何でもはっきり、見えるようになるまで、私たちは、主との交わりの中で、癒され、清められ続けることを期待しましょう。
今日も、主を見て、主を聞いて、主を覚える日となることを信じます。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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