おはようございます
今日は、マルコ8:27-9:1でした。
ペテロの信仰告白のシーンです。
29節にあるペテロの答えは、「あなたは、メシアです。」でした。
この答えは、民衆の答えとは、全く違うものでした。
そして、表面的には、正しい告白だったのです。
ですから、マタイによる福音書16:17-19によれば、イエス様がペテロをほめているシーンも描かれています。
ただ、その中身は全く違ったのです。
それが、次のイエス様の十字架の死の預言によって露わにされます。
ペテロにとってのメシアは、当時のユダヤ人がみんな思い描いていた王と同じでした。
ローマ帝国から、イスラエルを解放し、ダビデ王国を再建するメシア、王の王であるメシアを望んでいたのです。
そういう意味で、ペテロの考えはファリサイ派ものとそれほど変わらなかったのです。
イエス様は、31節から自分のことを「人の子」と話し始めます。
「人の子」は、旧約聖書においては、普通の人を表すことも、預言者を表すこともあります。
ただ、この状況で「人の子」を聞いた時、人たちが思い出したのはダニエル7:13ー14でした。
「(13)夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み(14)権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。」
これは、全ての権威をもった統治者、王の王としての「人の子」でした。
しかし、イエス様は、この権威者である「人の子」に「主の僕」という概念を結び付けられたのです。
メシアは、王の王としてだけではなく、イザヤ53章のような、苦しみを受ける王なのです。
31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
この告白に、弟子たちは、全く付いて行くことが出来ませんでした。
イエス様が十字架に実際につけられてもなお、弟子たちは理解できなかったに違いありません。
この告白に、ペテロが反論します。
32節「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」
この『いさめる』という単語は、イエス様が汚れた霊を叱られたときや、嵐をしかりつけたときの単語と同じものが使われています。
弟子であるはずのペテロが、イエス様の「人の子」としての権威を無視して、叱ったのです。
イエス様の聖書解釈を叱りつけるとは、恐ろしいことだったわけです。
33節「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
サタンの誘惑に、ペテロはもう一度、負けます。
イエス様が十字架に付けられる時、イエス様を否定してしまったのは、人間のことを思ってしまったからなのです。
イエス様は、ペテロが取るべきであった態度を、34節から話しています。
イエス様をメシアであると信じて、弟子として付いて行くのであれば、残された態度は、たった一つしかありません。
それは、主に対する従順しかないのです。
「自分を捨てて」という言葉は、自分の罪を否定するだけではなく、神を肯定するという積極的な意味が含まれています。
神を肯定することこそ、十字架の道を行くことに他なりません。
イエス様は、その道を歩むことで、父への従順を表し、神の愛を表し、死を命へと変える神の御業を表しました。
イエス様は私たちに、今日も、「私に従いなさい」と声をかけてくださっています。
人間のことを思う誘惑から守られて、イエス様の生き方を強く強く肯定し、今日一日がイエス様の十字架の道を表すことが出来るように祈りましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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