おはようございます
今日は、マルコ10:1-16でした。
今日の個所は、イエス様がファリサイ派にチャレンジを受ける個所です。
離婚してよいのかどうか?という難題をイエス様に突きつけます。
モーセの律法によれば、ある条件の下で離婚状を突き出して妻を離縁することは認められていました。
しかし、それは男性側の一方的な都合によって、男性優位に用いられてしまっていたことも事実です。
日本においても、「三行半」と呼ばれる離縁状が用いられた時代がありました。
たった三行の決まった文章を書けば、勝手に離婚できたのですが、イエス様の生きていた当時も同じような状況があったと考えられます。
つまり、ただ気に食わないとか、不倫をしたいからとか、そういう理由でモーセの律法の離縁状を用いる人がいたということです。
イエス様はそのことを激しく非難しています。
9節「神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
男性が優位であると考えていた当時のファリサイ派や弟子たちには到底理解できなかったのでしょう。
あまりに分からなかったので、家に戻ってきた弟子たちは、もう一度質問したようです。
その答えは、離別してほかの人と一緒になるなら、姦淫であるとイエス様は教えておられます。
ここで、重要なポイントは、イエス様は離婚という行為自体が罪だといっているのではありません。
(もちろん、積極的に、離婚して良いとも言っていません。)
モーセの律法を自分の欲望のために用いようとする行為を罪だといっているのです。
次の姦淫の相手を探すために、もしくは、姦淫をするために神の律法を用いて離婚することを激しく攻撃しているのです。
律法という制度は、もともと愛のために作られています。
しかし、このような律法の用い方は、まさに愛に反するものだったからです。
例えば、夫婦の片方が死んで死別してからの結婚や、特別な条件における離婚に関しては、イエス様は何もおっしゃっておりません。
使徒パウロも、離婚せざるを得ない条件を提示しながら、その時は去らせるに任せなさいと言っています。
(もちろん、パウロは結婚しない方がいいと考えていますが…)
実際、ピューリタンにおいて、様々な条件の下で離婚を認めているルールを決めていたという歴史もあります。
もし、私たちが一義的に「離婚は罪である」とすれば、それはまさに離婚は罪であるという、かたくなな心を持ってしまうことです。
ファリサイ派と同じ、イエス様に激しく攻撃される立場に立たされることを覚えなければなりません。
私たちは、「神が結び合わせたものを引き離してはなりません」というみことばを守りながら、一方で、どこまでが神が結び合わせたものなのか?考え続ける必要があるということです。
例えば、暴力をふるう夫であった場合はどうでしょう。
離婚は罪だという考えにとらわれてしまって、もし子供や妻が殺されてしまったらどうなのでしょうか?
最近、ニュースになりました、ある宗教団体で「はしか」が大流行してしまったのです。
しかし、はしかの予防接種が信仰上の理由によって受けられず、子供がはしかで死んだケースがありました。
まさに、離婚は罪であるという考えをかたくなに守るならば、人の命を軽く見る行為になってしまう可能性があります。
イエス様がおっしゃりたいのは、神の掟を、自分のために用いるこそがいけない罪であると仰っています。
次に書いてある子供を祝福するのも同じことでした。
人権のなかった女性に対する回復をメッセージしたのが離縁状の話、
そして、ここでは、子供の人権を回復されています。
共通項は、神の律法というものを用いて、人を無視することに対する警告です。
イエス様は、神であり人でもある存在です。
だからこそ、神ご自身は人を無視して働くことはありません。
神の律法は、最初から最後まで、神の愛の啓示のために書かれているのであり、啓示には必ずそこに人がいます。
決して、人を無視するために神の掟は存在していません。
もちろん、人よりも神に従うべきです。
人の権威より、はるかに神の権威が高いものです。
しかし、その最高権威である神ご自身が、人を愛し、人を大切にされております。
神に従うといって、律法を頑なに守り、人を無視するなら、それは神に従ってはないのです。
私たちは、このように神の律法を自分の保身、相手への攻撃、罪の目的のために用いてはなりません。
神の律法の中にあるのは、神の愛です。
それは私への愛です。
そして、同時に私の隣人への愛です。
今日、祝福された神の子として、愛をどう表現して行くのか、主が教えて下さり、神の掟を守る私たちとなることを期待します。
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