おはようございます
今日は、マルコ12:1-12でした。
今日出てくる、悪いぶどう園の農夫たちの話で面白いことがあります。
1節を見ると、農夫たちは、ぶどう園を借りてその収穫を得ていました。
何回か、貸主のしもべを追い払って、最後にはその子供を殺してしまいます。
なぜ、農夫たちは、このような犯罪をやってしまったのでしょうか?
農夫たちの興味深い言葉があります。
7節です。
「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』」
農夫たちは、ただ、土地を借りているだけなはずです。
ですから、相続する権利は全く持っておりません。
なぜ貸主の子供を殺せば、自分たちにその相続財産がやってくるのか、その論理はミステリーです。
まさに、この農夫たちには、自分が耕している農地が、自分のものであると完全に勘違いしていたようです。
これは、民法を学ぶと詳しく解説することができます。
占有権と所有権が、分かれて存在しているという事実です。
占有権は、その物を自分が今、持っていて使うための権利です。
所有権は、もちろん、そのものは自分のものである権利です。
そして、この2つは同じではないということが民法の基礎となっています。
例えば、家を貸すとき、所有権は移りません。
家を貸しても、その家自体は貸した人の持ち物です。
しかし、占有権は移ります。
占有権は借りた人が持っていて、だから、その家に住んで自由に住むことができます。
もう一つ、典型的な例はものを盗んだときです。
ものを盗んでも、違法行為なので、所有権は盗んだ人には移りません。
しかし、一方で、占有権は、盗んだ人が持っていることになります。
なぜこのようなことが起こるかといえば、具体的に考えるとわかります。
実際に、その人が占有しているものは、その人が所有しているものだと、私たちは推測するのが普通だからです。
服を来て歩いている人の、その服が、その人のものではなく、他人のものであるなんて、普通は疑いません。
私たちは、占有こそ所有であると考えてしまうのですが、実際は違うのです。
私達は、このことを、自分の命や人生、この世界に適用してしまいがちです。
私が占有している、この命は、私が所有しているのではないか?と勘違いするわけです。
所有していると勘違いすると、勝手に処分する権利も私にあると勘違いしてしまいます。
そもそも、あるものを貸して管理を任せるとは、信頼があるからそうするのです。
主なる神様は、私達を信頼して、私の命、私の人生、今日の管理を任せておられます。
ですから、この信頼という愛に、私達は応えるべきです。
私の持てるもの全ては、主から頂いたものであるという信仰をもって、任せられた命を使って、主の御心を全うすることができる今日一日となることを期待します。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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