2月6日早天メッセージ

投稿者: | 2019年2月6日

おはようございます
今日は、マルコ12:28-34でした。

今日はすごく有名な、問答です。
イエス様は、613個の全ての戒めを、2つの愛にまとめられます。

十戒にも、同じ2つの愛が書いてありました。
1~4戒までと5~10戒までの2つに分けることができます。

2つの愛と言っていますが、違う性質の愛が2つあるのではありません。

同じ愛が、2つの方向に流れているのです。

自分から神に向かう方角と、自分から隣人へ向かう方角です。

なによりも、「神は愛である」のですから、神ご自身を考えなければなりません。

三位一体の中では、父と子と聖霊が、互いに愛によって結ばれていました。

自分から神に向かう方角は、これで理解することが簡単でしょう。
(父から子、聖霊へのように流れる愛)

では、もう1つの、自分から隣人へ向かう方角は、三位一体のどこにあるのでしょうか?

それは、イエス様の中にあります。
イエス様は、本当に人でもあるからです。

主なる神は、天地創造を愛によってなされました。
地上において人間は、愛されるために作られた存在です。

三位一体の神の中で完全なる愛は成し遂げられていたのに、なぜ、愛するために人を造らなければならなかったのでしょうか?

その答えは、簡単です。

人は、既に三位一体の神の中に、イエスキリストとして、いらっしゃったからです。

神にとって隣人とは、人でもあるイエスキリストを表しているということです。

「隣人を自分のように愛せよ」という命令が完成しているのは、御父と御子の間だということです。

三位一体の愛が、なぜ、被造物の人間のところまで届いたのか?
まさに、イエス様が人として、神の中にいらっしゃったから以外の理由がありません。

そして、人でもあるイエス様への愛は、溢れ出てきて、地上での人へ届いたのです。

ですから、私たちがもし、神のみを愛して、人間を愛さなかったらどのようなことになるのでしょうか?

神だけ愛していえれば、世界や人間に対しては、どのようにふるまっても良い、と言えばどうなるのでしょうか?

それは、つまり、イエス様の人性を否定することになります。
イエス様が十字架において、苦しみと葛藤をもって、死なれたことを否定することです。

また、こう信じることです。

神の中にある愛は、神ご自身の中で留まることが出来るくらいの、そんな存在だ。
溢れるほどには神の愛は大きくはないのだ、と宣言しているのと同じです。

私たちが、神を愛するその愛の中に、イエスキリストへの愛が含まれているはずです。

ということは、神を愛するその愛の中に、本当の隣人への愛が含まれています。

原理的に、神への愛は、隣人への愛とならなければ、矛盾します。
この2つの方向の愛は、切っても切り離されない愛なのです。

別々に語ると、もう無意味なのです。

なにより、神の愛というのはあふれ出る愛であることを信じなければなりません。

神ご自身という最も大きな器から、あふれ出て地上へと、やってきました。

ですから、私に注がれた神の愛も、あふれ出て行かなければ、それは偽物だということです。

私たちに出来ることは、神の愛が私に注がれていることを神に感謝することです。

私には神への愛がありませんから、まさに感謝、賛美、礼拝こそが神への愛です。

そして、その愛が私からあふれ出て隣人へ届くことを邪魔しないことです。

私には隣人への愛もありませんから、まさに溢れ出る愛を留めないことこそ、隣人への愛です。

私に注がれている神の愛は、まさにあふれ出なければ気が済まない愛だと、信じましょう。
どこかに、閉じ込めておくことなど、不可能です。

三位一体の神でさえ、それをご自分の中に、とどめられませんでした。

私たちは、神というぶどうの木の幹に繋がる枝です。

神の愛が、私に注がれていることを体験し、
神の愛があふれ出て、実を結んでいくことを、体験することを信じ期待しましょう。

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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
毎日午前6:00~7:00までお祈りの時を持っています。