おはようございます
今日は、マルコ12:35-44でした。
今日の個所で語られるのは、偽善という問題です。
人間の弱さは、目に見えない神の愛を信頼しきることが出来ないことです。
神の愛を信頼しないゆえに、それに代わるものとして、目に見えるものを信頼し始めます。
そして、神以外のものを信じるならそれこそが偶像でした。
ティムケラーが上手に分類した私たちの生き方は、3つあります。
反宗教と、宗教と、福音という分類です。
反宗教は非常にわかりやすい偶像礼拝です。
神に反対し、まるで神がいないかのようにふるまいます。
一方で、宗教というカテゴリもーも偶像礼拝に入ります。
神に従っているかのように見せかけて、実は、自分こそが神であり、神を否定しているのです。
特に異端の人たちは、宗教的な人が多いです。
笑顔で、人が良く、怒ることなんてないかもしれません。
むしろ、柔和や謙遜ならば、私達は負けるでしょう。
しかし、彼らはそうすることで、実は自分をアピールしています。
自分の信じている宗教が、最も良いものであることを、自分の行動を通して証明しようとしているのです。
そのモチベーションはどこまで言っても、自己満足、自己完結に過ぎません。
そこには、自分の中に注がれて、無限にあふれでる神の愛という概念は存在していません。
今日、イエス様が嫌っているファリサイ派は、まさに宗教人でした。
だれよりも宗教的であることを自慢していました。
聖書を一生懸命読み、断食をし、献金をし、貧しい人たちに施していました。
もっとも、神に近いのではないか?と思われた彼らこそが、イエス様によれば、もっとも神から遠い存在だったのです。
私たちは、聖書を読み、教会で礼拝し、賛美し、奉仕し、福音を宣教しながらも、
最も神から遠い存在になることがあることに気をつけなければなりません。
三位一体の神を無視して、聖書が先に出、礼拝と賛美と奉仕、福音も宣教も、絶対化してしまうなら、私たちは偶像礼拝しているのと同じです。
例えば、福音そのものが偶像となることだってあります。
私たちは、気が付かなければなりません。
サタンが、最も好む戦略こそ、それです。
教会で、一生懸命聖書を読み、礼拝、賛美、奉仕、献金、宣教する人が、まさに偶像礼拝しているのを望んでいます。
私たちが絶対化していいのは、ただ、三位一体の神ご自身、地上に現れた啓示は、イエスキリストだけです。
その他のあらゆるものは、霊的なものだと言われたとしても絶対化できません。
一方で、三位一体の神ご自身も、イエスキリストも、まさに止まっている方ではありません。
私達はこの絶対的なものを、捕まえられないのです。
風は、動きを止めてしまうと、もはや風ではありません。
風は吹かないといけないからです。
聖霊様が風にたとえられるとすれば、神ご自身がそうです。
とすれば、私たちは、風を私の中に捕まえることが可能でしょうか?
不可能なのです。
私たちが、これこそが三位一体の神だと思って、とらえたと思った瞬間、それはもう神ではないのです。
この捉えられない神という不安が、私たちに偶像を拝ませるわけでした。
では、私達はどのように神を知り、神を信じるべきなのでしょうか?
この風は、私に向かって、絶えることなく、常に天から吹いてくるということです。
それを捕まえることは出来ません。
しかし、吹き続ける風を肌で感じ、風と共に歩むことは可能です。
「神に近いような人生」なんて歩まないで、神の風に囲まれて、「神に近い人生」を歩む私となることを信じて期待しましょう。
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東京リビングストーン教会は、早天祈り会を行っている教会です。
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