おはようございます
今日は、マルコ14:22-31でした。
今日の個所で語られるのは、過越しの食事、いわゆる最後の晩餐です。
日本では同じ釜の飯を食うという用語がある通り、一緒にご飯を食べるということは、グループの一体感を高めます。
当時の中東世界では、更に深い意味がありました。
同じ食事をするということは、みんなが一つとなるということを意味していたのです。
ですから、この過越しの食事は、1つのパンを裂いて、1つの杯をみんなで交互に飲んだのです。
クリスチャンにとって、これは聖餐式を表しています。
まさに、私たちは聖餐式を通して、自分たちがイエス様の中で一つであることを、体験するのです。
イエス様にとって、この食事は楽しいものではなかったでしょう。
自分の死を準備し、弟子たちの裏切りを宣言するこの食事は重たいものだったに違いありません。
しかし、主のご計画通りに、十字架へ向かうために必要な通り道でした。
ユダは聖餐の場にはいませんでしたが、残された弟子たちの裏切りも預言します。
特にペテロは、いつもの通り、イエス様に反発して、意気込みます。
しかし、ペテロは、残念ながらイエス様を否定する誘惑に打ち勝つことは出来ませんでした。
このイエス様の預言は、警告的預言です。
本当のところ、この預言が外れることこそがイエス様の願いだったはずです。
警告を素直に聞き、自分の心の誘惑に打ち勝つ、みことばと祈りに集中して欲しいということが、まさにイエス様の願いでした。
旧約聖書で語られるすべての滅びの預言も同じです。
滅びることを主が願ってなされたものではありませんでした。
全ての滅びの預言は、滅んでほしくないからこそ、注意を促しているのです。
主の願いも虚しく、滅びの預言は、全てその通り成し遂げられてしまいます。
とすれば、預言しておかなければいいのでは?と思うかもしれません。
しかし、何より滅んでほしくないという心を表すために、滅びの預言をしなければ、気が済まなかったのです。
そして、預言しておくことで、滅んだ後の態度は変化せざるを得ません。
「滅びます」と警告されて、警告を無視して本当に滅びれば、その後、滅びますと言った人の元に戻ることは容易になります。
イスラエルの民が、捕囚から戻ってくることが出来たのは、滅びの預言が預言者の口を通して語られていたからに違いありません。
そして、今日、ペテロに語られている滅びの預言も同じです。
なにより、イエス様ご自身が、28節に「ガリラヤに先に言っている」と宣言されています。
ガリラヤは、裏切った弟子たちを、もう一度呼び出す場所です。
特にペテロには3回、愛しているのか?と問いかけて、回復を狙う重要な場所でした。
警告的預言によって、ペテロたちが、もう一度イエス様のところに戻り、今度はさらに深い信仰をもってついてくることを願っておられるのです。
私たちは、聖書を通して、あらゆる主の警告を聞いています。
その警告通りに、聖霊様で満たされて、主の愛の中で罪に注意すべきです。
同時に、弱くて誘惑に負けてしまったとき、先に回復の地で待っているとおっしゃったイエス様を思い出すべきでもあります。
主の愛の中にいるものは、立ってても倒れても大胆な歩みの中にいるのです。
今日、その大胆さが私たちに与えられることを期待して信じます。
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