2月18日早天メッセージ

投稿者: | 2019年2月18日

おはようございます
今日は、マルコ15:1-15でした。

今日の個所は、イエス様の十字架刑が決まる場面です。

人が悪いことをするとき、どんなに立場が違っても、不思議に協力していきます。

ここには、民衆たちと、ファリサイ派とサドカイ派、そしてローマの総督がいました。

それぞれに、立場が違って、時に喧嘩をし憎しみ合っていた関係です。

ファリサイ派とサドカイ派も、神学でも政治でも水と油のような全く違う思想の持ち主です。

彼らとローマ総督は、支配する側とされる側の緊張関係がありました。

民衆だって、ユダヤ支配層のサドカイ派には反対だったでしょうし、もちろんローマ総督は憎しみの対象だったに違いありません。

にもかかわらず、イエス様を十字架刑にすることに反対したものは誰一人いなかったのです。

なぜかこのとき、すべての違いを乗り超えて、むしろ悪い意図で一つとなり、同じ言葉をはなしていました。

「十字架に付けろ!」という同じフレーズを語っていたのです。

誰かが、1人でも、反対すれば、イエス様が十字架にかけられることは止められたはずです。

もちろん、イエス様が十字架に付けられるのは、神ご自身の計画だったので、神が止められなかったから、そのままでした。

それにしても、これに異を唱えるものは無く、全員が賛成したとは、悪の力のなせるわざでした。

罪をなすとき、人は全ての差を無視して、ひとつとなります。

全ての人がイエスマンとなり、少数意見は切り捨てられる状態となります。

全員が同じフレーズを話し始めた時、それは人間の罪が働いています。
その後ろには、サタンの戦略があるのです。

これは、教会でも同じことです。

教会はキリストの中でひとつとなります。
しかし、そこには多様な意見があり、何より人が無視されません。

パウロのような人と、バルナバのような人が共存しているのです。
パウロとヨハネが一緒の主を信じていることが起こります。

もし、教会の兄弟姉妹たちが、同じフレーズを口にし始め、同じ表情をし始めたら、それは危険信号です。

もちろん、「イエスキリストこそが真理だ」というような言葉なら、その危険性は少ないかもしれないです。

しかし、それでも、イエスキリストが真理だという言葉だけが、概念化したらどうでしょう。
そらが、ただのキーワードになってしまった瞬間、もはや真理であるイエスキリストを表すことが出来ません。

そのような死んでいる言葉は、生きているイエス様を表すことが出来ないからです。

私たちは、サタンが最も好む、イエス様の概念化、フレーズ化に対して、常に戦う必要があります。

イエス様は生きていらっしゃるがゆえに、それは私たちにとって、毎日新しいはずだからです。

むしろ、この場面で、ただ一人だけ正しい方がいました。
その通り、イエス様です。

誰一人、他に仲間はいません。

私はユダヤの王であるという正しいことを言いますが、理解さえされませんでした。

私たちが罪から離れ、正しいことをするということは、この覚悟が必要だということです。

正しいことをする、正しいことを話すとき、私たちは孤立し、批判されるということです。

しかも、自分の正しさを弁明することをイエス様はなさいませんでした。

批判を受ける時、イエス様は沈黙されたのです。

私たちは、この孤独、そして、弁明したいという誘惑に勝つ必要があります。

ただ一つの希望は、イエス様にとって、地上に味方はいませんでしたが、天にはいらっしゃったということだけです。

このとき、父なる神さまは、実にイエス様の側に立ち、イエス様の代わりに、雄弁に語っておりました。

それは、バラバが解放されるこの場面が、預言の通りであったからです。

例えば、イザヤ53章のような預言が、そのまま成し遂げられることを通して、
実は、父なる神様は、誰よりも大きな声で、神の言葉を語っておられました。

私たちは、世に属していないクリスチャンとして、まさに孤独に、しかし、沈黙を守って歩まなければならない瞬間があります。

そのときの孤独は、天の味方を体験するために必要な養分だということに気がつくでしょう。

そして、私たちが弁明せず沈黙するならば、むしろ、主なる神様が雄弁に神の御言葉を語ってくださることを、私たちは期待して信じましょう。

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