おはようございます!
今日はヤコブ2:14-26でした。
今日の箇所はヤコブ書のクライマックスと言ってもいい場所です。
ヤコブは、行いのない信仰は死んでいるものと告白していきます。
信じているだけで、何も愛の行いをしないなら、それは無意味だというのです。
そのための例示として、アブラハムがイサクを捧げたこと、そして、ラハブがヨシュアたちを受け入れたことを引用しています。
特にストレートに告白されている24節、
「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。이로 보건대 사람이 행함으로 의롭다 하심을 받고 믿음으로만은 아니니라」
行いによって義とされるという言葉だけで考えると、ヤコブの告白は、パウロの告白である信仰によって義とされるという言葉と矛盾するように聞こえます。
しかし、両方とも同じ事を言っています。
信仰とはなにかを、まず、きちんと考えるべきです。
信仰とは、イエス様が私たちにくださった神の啓示に従うことを意味しています。
簡単に言えば、私の人生にイエス様を受け入れる、心の扉を開ける、など様々な表現が聖書の中でなされています。
そのどれも、信仰が、主を受け入れることであることに変わりはありません。
ペンテコステのあの日に、弟子たちが受けたものは、炎とか光とか、そのようなエネルギー的な何かではありませんでした。
炎のような舌とかかれおり、それは人格的ななにかです。
主の啓示を光と解釈していたパウロも、イエス様に出会うとき、光に包まれただけではなく、その中で神の声を聞いています。
ですから、信仰を恵みでいただくというそれ自体に、イエス様を頂く、聖霊様を頂くということが含まれています。
だからこそ、私たちが死なない限り、イエス様を受け入れることはできません。
日々、キリストともに死に、信仰を受け取るので、キリストともに生きることが許されます。
イエス様を受け入れるということは、この愛の神を受け入れるということです。
この神の愛は、動いていなければ、つまり、愛していければ死んでしまいます。
三位一体の神が永遠に三位一体の神であるのは、神の愛は動き続けているからです。
愛し続けている愛を、受け入れるのが信仰だとすれば、信仰は愛することと同義です。
受け入れた愛は、私の中でも止まることができず、また、愛そうとするからです。
これこそがパウロが言うとおり、神の愛に駆り立てられている、囲まれている状態です。
愛と出会い、愛を受け入れる信仰は、この愛が止まることなく働き続ける、行いの伴った信仰に違いないでしょう。
このようなわけで、私たちは信仰によって神の愛を受け入れて義とされ、
また、この愛が動き続けている事をもって行いによって、神に義と認められます。
もし、イエス・キリストに出会っていない信仰というものがあるなら、それは行いが伴わない信仰であり、死んでいるわけです。
ヤコブが死んだ信仰といっているのは、義とされることさえもない信仰のことを言っているのでした。
私たちの人間として行いによって義とされる事はありませんが、
神の愛としての行いがあるならば、それが義と認められるのは、当然なことでしょう。
そもそも、信じることがなされる瞬間、私たちは死ぬという、重要な行いをしています。
死んで愛されること、そして、生きて愛すること、それらはイエス様を受け入れる時に一緒にやってきます。
今日という日が、イエス様を受け入れるという、生きている信仰を求めて、
神の愛が私たちを駆り立てて、愛の行いへと導くことを信じて期待しましょう。
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