新改訳聖書が、宗教改革500年に合わせて改訂される。
そのパンフレットをみると、「聖書は誤りのない神のことば」だと書いてあった。
おもにプロテスタント教会において使われる聖書なので、いわゆる聖書の無謬性が主張されているところなのだろう。
(ちなみに、無謬性と無誤性など、定義が曖昧だが、ここでは無謬性に統一しておく)
ただ、私個人的には、「聖書は誤りのない神のことば」ということにはそのままでは同意できない。
別に、その考えを選択することに、なんら反対するわけではないし、もちろん、それが間違っているわけでもない。
ただ、「聖書が誤りのない神のことば」であるという考えには、ある危険をはらんでいることを常に認識すべきだろう。
つまり、この考えは、聖書著者が聖霊の働きにより、誤りない記述を保持したと考える以外はない。
とすれば、聖霊の働きによって、人間に誤りのない働きができる可能性が、0ではないことを考えるのと同じことになる。
この考えは、カトリックの言う、恵みの注入と同じ論調が否めなくなる。
人間の働きに聖霊が働くと、誤りのない行動と言動が可能となるというのは、結局、目に見える人間に頼り、耳に聞こえる人間のことばを信頼することに繋がってしまう。
特に聖書を教えるもの自身に権威を付与しがちとなる。
まさに、教皇の無謬性と同じ結論となるわけである。
まさか、使徒たちだけが特別だったと主張するわけでもない。
もちろん、使徒たちも、私たちと同じ人間であったはずだ。
どんなに聖霊で満たされても、人は間違いなく人であり、しかも、古い人が残される。
聖霊で満たされた私たちの行動、言動が正しいのではなく、私たちの誤りを含んだ行動、言動が正しく働かれる主によって、万事は益となるように変えられるだけとするのが自然に思える。
「聖書は誤りのない神のことば」という言葉の出発は、聖書の高等批判に対抗し、聖書の権威を守ろうとした防御反応であった点がある。
これは、第二バチカン会議における教皇の無謬性が、世俗主義に対抗する防御であったことと同じ反応だ。
その後の聖書研究の発展により(批判はあるだろうが、ブルトマンの非神話化の考え方は、私にはスッとくる)、聖書の無謬性を固執する必要は無い。
無謬性を否定したとしても、聖書の権威を落とすわけでもない。聖書はまさにイエスキリストとの出会いの原体験の記録である。
それは、繰り返し私たちにも起こるという意味で、生きて働く聖霊による動的な権威を帯びている訳である。
そして、何より「聖書は誤りのない神のことば」と考える人は、聖書をものとして扱いやすい。とすれば、三一神さえモノ化する危険が含まれている。
さらにそれは、隣人をモノと見なし、人格的関係の破壊へ繋がっているわけである。
聖書が偶像化する。
まさにファリサイ派が犯していた罪と同じ道をたどることになるだろう。
ファリサイ派は徹底的に「聖書は誤りのない神のことば」だと自分たちは信じていたからである。
人間がこだわり過ぎて、落とし穴に落ちるのは良くあることだが、自分の力で信仰している!と、ちょっとでも考えた瞬間、それは危険信号だ。
信仰は奇跡である。
それは、最初から最後まで、主の御業以外の何物でもない。
だからこそ、毎日イエスキリストに出会なければならない。
聖書において、信仰の祖先たちが出会ったようにである。
そして、毎日出会ってくださることを私たちは期待していい。
聖書を通して、聖霊の働きによって、誤りのない神のことば(つまり、イエスキリスト)と私は出会うのである。
ドラマチックな出会いを、明日も期待して生きよう。