『Center Church』
ニューヨークのリディーマーチャーチの元担任牧師ティムケラーの大作である。
この意味は、Gospel-centered churchの意味で使っていることはすぐ分かる。
まぁ、実はこれから本を読むんだけど、違和感があるのは否めない。
なぜ、Jesus-Christ centered churchではないのか?という点。
ネットには、同じ疑問を持った人がほんとに少数、ブログに書いてるくらいで終わっている。
もちろん、福音は聖書に、イエスキリストの福音と表現されるので、
福音中心でも、イエスキリスト中心でもいいと思うかもしれないが、全くの別物だ。
というのは、福音中心という言葉には、なにか非人格的なものを感じざるを得ないからだ。
福音=良い知らせ=イエスキリストという、連関がすぐ思い浮かべばいいが、わざわざ、福音中心と書くのは、なにか神学的な意図があるはずだ。
本を読んでないから分からないので印象論だが、もしかすれば、ティムケラーの組織神学において、三一神が静的な、形而上学的な神のままではないのか?という懸念である。
つまり、イエスキリストは、いま福音を語ることがお出来にならないと考えるからこそ、イエスキリスト中心とすることが出来なかったのではないか?
天において動かないイエス像を考えると、いま教会に働くのは聖霊の働きであり、それは逆説的に人の働きに重きを置くだろう。
宣教されるイエスキリストが中心ではなく、人が宣教する福音が、その主人公となることで、実践的に人が世界に近づくことを考えているような気がする。
『人』によって宣教された福音が人に、社会に、教会に到達し、作り替えていくというビジョンとなってはいないか?
危惧であれば良いが…
もちろん、神学は常に批判にさらされながら、真理に近づくのだから、それはそれでよい。
しかし、危惧が当たってしまえば『Center Church』は、人間中心の福音に落ちる危険をはらむことになる。
この本ではそこまで立ち入らないかもしれないが、その点は吟味されるべきだろう。
やはり、いつでも強調されるべきは、次の事実だろう。
宣教する私という人は、宣教する主語ではない事である。
宣教する主語は、まさに宣教されるイエスキリストご自身である。
そして、だからこそ、三一神によって啓示された信仰によって、宣教する主語である、宣教されるイエスキリストが、私と共にあることに大いなる感謝と賛美が生まれるだろう。
三一神が今日も私に近づき、福音を語ってくださる。
神は神ご自身であるが故に、愛さないことが出来ないのだから。