神学は、漸進する。

投稿者: | 2017年6月6日

神学は、漸進する。

前進ではなく漸進する (笑)
これは、主なる神様の啓示は、漸進的に(少しずつ)与えられる、というのを信じている宣言だ。

なぜ、神学が必要なのだろうか?

宣教するイエスが、宣教されるイエスキリストになった時、神学が生まれた。
信仰は、理性的であるがゆえに、まさに神学が必要となったわけである。

ちなみに、人間の理性では、実に信仰に到達することはできない。
たしかに、ヘーゲルはそれがあると信じて疑わなかったかもしれないが、そのような信仰が「ない」ことは、ニーチェが、シュライエルマッハーが、説明してくれている通りである。

しかし、信仰は真実に理性的である。

信仰は、主なる神様から与えられるものだからである。
信仰が私たちに与えられるときには、「理性的な信仰」が与えられるからだ。

その信仰によって到来した理性によって、私たちは神学を考えるようになる。

使徒パウロは、信仰によって宣教するイエスが宣教されるイエスキリストとなった時に、神学を構築した。

確かに、キリスト教を作ったのはイエスではなく、パウロだという記述は、間違っているようで、合っている。
ただし、キリスト教を作るという意識は、パウロにはなかっただろう。

「このイエスこそ、キリストである。」

主から頂いた、そして、自分の出会ったこの信仰をどう伝えるか、祈りつつ苦心した結果が、彼の神学となり、メッセージとなり、聖書として私たちが読んでいる手紙となった。

そこから1900年以上が経ち、神学は終わったのか?
宗教改革で、神学は完成したのか?

いいえ。全く。

もし信仰が、今日も新しく与えられるのであれば(実際に信仰は今日も私に新しく与えられる。天から降るマナのように。)、神学は今日も新しくならなければならない。

1900年の伝統があり、それに影響を受けないことは不可能だが、主が今日、私に与えられる信仰は、1900年の伝統を超える主の御業である。

使徒たちも、ユダヤ教の伝統を、新しい信仰による理性によって解釈し新しくしていった。
使徒たちに起こった出来事は、私たちにも起こらないと誰が決めることができるのだろうか?

私たちも使徒たちと同じように、すべきではないのだろうか?
この信仰によって、与えられた理性は、私たちを駆り立てる。

私は、信仰によって、神のことを考えないではいられない。

まさに、愛し合う2人が、「もう、あなたのことしか考えられない」と告白するのと同じである。

神学は、学問ではなく、言うなれば、愛の営みなのである。
全てのクリスチャンは、神学をすべき、ということだ。
まさに、神は愛だから。

神学こそ、神は愛であることを証するものであるし、神を愛しているならば、神学をせざるを得ない。

もし、神学が止まったら?

それは愛が止まるということと同じ意味だろう。

愛が止まったら?

罪とは、神からの愛を止めて、そして、神への愛が止まったところから始まると、創世記3章は私たちに教えている。

信仰は、日々新しく与えられる。
つまり、イエスキリストは、日々新しく私に出会ってくださる。

その時、私は、神を愛さないではいられない。
私は、神を考えないではいられない。

もちろん、つまづくことは、たくさんあるけれど、足りないことはたくさんあるけれど、その瞬間でも、イエスキリストは、新しく私に出会ってくださるのを私たちは信じている。

仕事をしながら、勉強をしながら、家事をしながら、子供を育てながら、趣味をしながら・・・、

神を考えずにはいられない。

ああ、これがローマ書12:1に言う、使徒パウロがおすすめする礼拝ではなかろうか?

信仰をもって歩んでいるということこそが、最大級にイエスキリストが生きておられる証しである。

昨日の神学に安座することなく、今日も神学が漸進することを願い、過ごす一日としよう。