おはようございます!
今日は民数記13:1-24でした。
今日の個所は、カナンの地へ入ろうとするイスラエルの歴史の中で、最も悲しい出来事の序章です。
カナン地の偵察によって、不信仰に陥ったイスラエルは、40年も荒れ野でさまよう結果となってしまいます。
このきっかけはどこから出てきたのでしょうか?
そして、その後ろ側にある主のご計画はどのようなものだったのでしょうか?
考えてみたいと思います。
〇祈りを許す、後ろにある主の御心は何か?
2節「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」
この命令が主なる神様から出たものだ、と民数記は記録しています。
ただ、申命記1章を見てみると、この命令は、イスラエルの民が願ったものだということがわかります。
つまり、実際はこのようなものでした。
民が、カナンの土地を見て来たいと申し出て、モーセがそれは良いことだと思って、主に祈り、主がそれを許可したという流れとなっています。
モーセは、偵察隊がきっと素晴らしい報告を持ってきて、全員の士気が上がると信じたのです。
(そうはならなかったのですが…)
一方、主なる神様は、どう思われたのでしょうか?
なぜ、この民が願ったカナン偵察をお許しになったのでしょうか?
それは、おそらく、イスラエルの民を試すためだったと思われます。
本当のことを言えば、偵察は必要ありませんでした。
すでに、カナンの土地は、主なる神様によって、乳と蜜の流れる土地であることが知らせられていました。
すでに、その土地が、イスラエルのものであることを、主は約束されていました。
本当に、主を信頼しているのであれば、カナン偵察の申し出は、出なかったでしょう。
主を信頼して前に進むだけだったはずです。
主は、カナン偵察をしたいという民の願いに、イスラエルの不信仰をすでに見出しておりました。
だからこそ、その不信仰を、まさに目に見える形、耳に聞こえる形にするために、民を試したのです。
私たちは、ここでよく考えなければなりません。
私たちは祈りが主によって応えられるときが当然あります。
しかし、なぜ、主はその祈りを許るされたのか?一歩進んで、考えないのです。
祈りが『イエス』となったのは、私が正しいからでは決してありません。
もし、私たちの祈りが、主の約束に対する不信仰によってもたらされたものであったとしても、主なる神様は、時々、その祈りを許されるからです。
祈りが応えられた!という、その感謝や賛美は、不信仰から来るものであるかもしれない…
私たちは、常にその可能性を考えて、自分を吟味しなければなりません。
いや、主に吟味されている事を覚えなければなりません。
私たちは祈りが、『イエス』か『ノー』か『ウェイト』なのか…
この結果にしか興味が無い時があります。
だから、『イエス』では喜び、『ノー』では悲しんだりします。
しかし、私たちは祈りの結果という表面的なものを見るだけではならないのです。
その後ろにあるもの、主の御心が何であるのか?
それこそを、祈り求めなければなりません。
そうしてこそ、『イエス』でも、『ノー』でも、『ウェイト』でも、いついかなる時でも、信仰によって主に感謝し、賛美捧げられるでしょう。
祈る時、それは主との交わりの時間です。
だからこそ、それは私の信仰が本物かどうか、試される時でもあります。
祈る時、私の信仰が、主によって新しく私に与えられることを願いましょう。
祈る時、私の考えが、主の考えに作り変えられます。
祈る時、私の祈りが、主の祈りへと作り変えられます。
今日も、私に与えてくださる恵みと、目には見えないが、確実に目の前で実現していく主の計画を信じて、祈り歩むものとなることを信じます。