早天メッセージ7月18日

投稿者: | 2017年7月18日

おはようございます。
今日は民数記31:1-12でした。

 

〇モーセへの最後の命令

モーセへの最後の命令が、主によって下されます。
それはイスラエルに偶像礼拝によって、大打撃を与えたミディアン人に対する報復でした。

当時の社会情勢において、報復戦争を仕掛けるということは、普通の行為であり、とがめられるようなものではありませんでした。

しかし、この場合、やられたからやり返す、リベンジの意味で戦争が行われたのではありません。
そこには、宗教的な意味があり、特別な戦闘でありました。

戦闘員として、1000人ずつ12部族から選ばれます。
全体の2%ほどの非常に少ない部隊です。
勝利を収めようとする、通常の意思はそこにありません。

しかも、指揮官は、祭司ピネハスです。
彼は、ミディアン人とイスラエルが姦淫の罪を犯したときに、大胆な行動をもって、主の怒りを鎮めた人物です。
指揮官は、モーセでも、ヨシュアでもありません。
さらに、彼が持っていたものは剣でも槍でもなく、祭具とラッパでした。

これは、全く通常の戦闘ではありません。

後に、ヨシュアが戦うエリコ城での戦闘方法と同じ雰囲気がします。
まさに、この戦闘は、ただの戦争ではなく、むしろ霊的なものでした。

 

〇バラムの最後

この戦いにおいて、ミディアン人のリーダーと共に、バラムも殺されました。

バラムがなぜ、ミディアン人と共にいたのかは、書かれていません。

バラムは、ミディアン人をイスラエルに送った張本人です。
おそらく、バラクから大量の報酬をもらって、優雅な生活をしていたのでしょう。
口先だけで、主に従ったバラムは、結局、主によって裁かれたわけです。

非戦闘員である、彼の名が記録されていることからも、この戦いが宗教的意味合いを持っていることがわかります。

 

〇普通に戦ってしまったイスラエル

戦闘員の集められ方も、リーダーの選ばれ方も、普通ではありませんでした。
異常事態だったのです。

しかし、彼らの戦い方は、残念ながら、普通だったのです。

のちに、サウル王は、家畜に至るまで滅ぼしつせと命令されて、それを守れずに、王の座から降ろされるという事件が起きます。
イスラエルにとっての戦争は、勝ち負けが大切ではありません。

どのような意味で戦うのか、どのような方法で戦うのか、それが大切でした。
イスラエルの戦闘はいつでも、主に対する従順の表現であったからです。
まさにそれは礼拝で、奉仕だったのです。

残念なことに、ミディアン人との戦闘で、普通の方法が用いられてしまいます。
彼らは戦闘員だけを殺し、女と子供、家畜や財産を奪ってきてしまいました。
これは、当時の戦い方そのものでした。

誰一人、この戦争に意味を見出し、主に聞いて、従順する態度を取らなかったのです。

行け!と言われたから行く!
しかし、自分たちが今までやってきた方法のまま、他の人がやっている方法のまま、行く。
これでは、主の御心を成し遂げることは、不可能なのです。

クリスチャンが世に遣わされるのは、狼の群れに羊を入れるようなものだと、イエス様が表現されました。
私たちは、完全なアウェイ戦を、戦わなければなりません。

私たちの戦いは、普通の戦いじゃ無いのです。

それは使徒パウロが言うように、礼拝です。
イスラエルの戦闘と同じく、霊的な意味がそこにはあります。

私たちが持っている武器は、祭具とラッパなのです。

このラッパは、何でしょうか?
まさに、主が来られるときに吹くラッパです。
私たちは、遣わされている場所において、主が来られたことを、ラッパを吹いて知らせるのです。

私たちの戦いは、主の戦いであり、意味があることを知らなければなりません。
それは、通常の方法で勝利しても虚しいだけです。
特別な、主の方法が、私に与えられた、特別な勝利が与えられることを信じて歩むことを信じましょう。