おはようございます。
今日は民数記33:1-37でした。
〇全く変わらなかった、主の導き
今日の個所は、エジプトから、カナンに入るまでのすべての旅程を、ふり返っている個所です。
明日の個所の49節まで、ずっと、宿営地が書かれ続けています。
宿営地がどのようであったかは、聖書の後ろの地図で、確認するといいです。
(インターネットで調べると異端のサイトが出てきます。こういう地図は、異端の方が良いものがあるという悲しい状況です…)
33章は、『どこどこを出発して、どこどこに宿営した』という表現が41回も繰り返されます。
これは、今までの旅程をふり返りながら、主が自分たちに降り注いでくださった恵みと祝福をもう一度考えるという意味があります。
讃美にあるように、「数えて見よ主の恵み」なのです。
クリスチャンは、使徒パウロの言うように、後ろのものに気を取られず、前を向いて歩いていく必要があります。
しかし、それは私の成功体験や、私の経験に気を取られないという意味です。
主がどのように働いてくださったか、という主の恵みと主の導きを考え、感謝し、賛美することを禁じているわけではありません。
私たちは、常に、私の人生の中で主が何をなさったのかを、感謝と喜びをもって考え直さなければならないのです。
イスラエルの歩みで、特に重要だったのは、この41回繰り返される、出発して宿営したということでした。
毎回毎回、主ご自身である、火の柱、雲の柱が、移動して、留まるということを繰り返したことを意味しています。
そのたびごとに、主の臨在の幕屋は、解体され、12部族の隊列を組んで、移動していったのです。
40年の荒れ野の生活において、イスラエルは替わりました。
彼らの世代は完全に交代したからです。
エジプトから生きていた第一世代は息絶え、エジプトを知らない新しい第二世代に変わりました。
ただ、一つだけ、変わらなかったことがあります。
それは、主がイスラエルを宿営地ごとに、導いたということです。
変わることなく、主は、イスラエルと共に旅をなさったのです。
この間、イスラエルは何をしたでしょうか?
金の子牛を作ったり、モーセに反逆したり、祭司の職務を超えてしまったり、ミディアン人と姦淫を犯したり…
イスラエルは様々な反逆行為をしました。
しかし、主が共にいらっしゃったことは、全く変わらなかったのです。
どこに行っても、イスラエルがどんなに背いても、主は共にいらっしゃいました。
モーセは、この変わらない、主の御守りこそが、イスラエルに与えられた最高の奇跡だと33章で記録したのです。
昨日も今日も明日も、主の恵みは変わることがありません。
私たちの一歩、一歩、それは非常に小さい一歩かもしれません。
それはもしかすれば不従順の一歩、不信仰の一歩かもしれません。
しかし、主は、私と共に家から出発し、私と共に帰ってくるのです。
今日という1歩の意味は、恐らく何が何だか分からないでしょう。
イスラエルが、カナンに入る時に、やっと全ての旅程を理解したように、私たちも最後の日まで、その意味は、秘密であって分からないのです。
ただ、一つ、主が共にいらっしゃることだけにおいて、私の今日の一歩に十分な信仰の意味があります。
2017年7月24日に表された神の栄光は、最後の日輝いて私に雄弁に語ることを私たちは期待していいのです。
だからこそ、主が変わらず私たちといらっしゃるからこそ、私たちは、主に感謝しようではないでしょうか?
感謝のしるしとして、主が望まれる、主の愛と恵みが、私の中からあふれる今日を、歩もうではないでしょうか?
主が共に歩んでいることを信じる者の幸いを味わい、歩む、私と皆さんとになることを信じます。