聖書と科学シリーズ1

投稿者: | 2017年8月1日

自分が物理学科の人間だったので、聖書と科学に関する考察をすることは、
主の与えてくださった使命のように感じます。

私は聖書と科学は、原則として矛盾するものではなく、一定の緊張関係を持ちながら、
相互にコミュニケーションをとるべきものだと思っています。

 

聖書と科学を考える上で、基本的には、次のような態度をとる人には、
十分に気をつけたほうが良いと思っています。

1、進化論なんて間違いだらけの幻想だ。

2、いやいや創造論こそが、オカルトの域を出ない「でたらめ」だ。

3、いや、聖書と科学を無条件、調和させていくべきだ。

 

1,2は、原理主義者でありながら、排他主義者でもある人。
3は、無条件にそのどちらでもないという人。

私は、聖書を信じるということは、ある意味での原理主義にならざるを得ないものであると思っています。

人間の論理思考を超えたところにある(しかし、キリストによって人間に啓示されている)、
神の論理、言葉は、因果関係に縛られるものでありません。
この時点で、信仰は非科学的な分野に入ってしまうわけです。
ゆえに、それは、「無条件に」受け入れるという信仰の行為を含んでいます。
その意味で、原理的なものを信じるしかないわけです。
(一方で、因果関係で導ける信仰もあることに異論はありません。
旧約聖書にはヨブ記のような非論理的な働きも、箴言のような因果関係的な働きも両方あることを赤裸々に告白しているわけです。)

ただ、世の原理主義者のほとんどが、排他主義になってしまうのですが、
クリスチャンは、このようなことがあってはならないと思っています。
つまり、イエス・キリストが愛を貫いたように、愛によって、何人も受け入れる態度がないと、
それはイエス・キリストの愛を全うすることにはならないでしょう。

一方で、この辺が難しいところですが、
3番のような、じゃあ、愛の精神によって、なんでも受け入れてしまえ!という、
相対主義的な、福音主義者は危険だと思っています。
この場合、相当な可能性をもって、聖書に妥協をせざるを得なくなるでしょう。

 

要は、バランスであるわけですが、
クリスチャンは、進化論を創造論を頭ごなしに否定することなく、
無条件に混ぜてしまうこともなく、是々非々での考察・対話が必要だということなのです。

絶対者である方が、肉となって、相対的な存在になることを認められた。
このイエスキリストの存在以上のバランスは、私たちに啓示されていません。
イエスキリストにおける、絶対と相対の矛盾と、その克服の道、つまり、十字架への道は、
聖書と科学における、絶対と相対の矛盾の克服の道を開くカギであると言えるでしょう。

諸論点、本の紹介など交えながら、つれづれと書いていくことにします。