おはようございます。
今日は、詩編44:1-8でした。
今日の詩編は、非常に複雑な心境を告白する詩編です。
実は、42篇から、コラの子による詩が49篇まで続いています。
特に、意味がまとまっているのは、42,43,44篇でした。
42,43篇に、ほとんど共通して出てくる言葉が、42:6、12と、43:5です。
「なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」
これは苦しみの中で、主を待ち望むという信仰告白にほかなりません。
苦難の中における信仰。これが42~43編のテーマなのです。
そして、このテーマは、44編でクライマックスを迎えます。
44篇の焦点は、実は、10節からの苦しみに合わせられています。
簡単に言えば、その苦しみは理不尽な苦しみです。
信仰によって、神を賛美して歩んでいるのに、やってくる苦難と迫害。
そのような理不尽な苦しみの中での心の叫びが、44篇なのです。
苦しみについては、明日の個所ですので、明日メッセージすることにしましょう。
さて、イスラエルは、理不尽な苦しみの中で、まず、何を黙想したのでしょうか。
2~9節において語られるのは、約束の地に入ってきたときに行われた主の御業を語っています。
4節「先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも自分の腕の力によって勝利を得たのでもなくあなたの右の御手、あなたの御腕あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。」
ヨシュア達が、カナンを占領したのは、主の腕の力だと。
その、力強い主が自分たちの味方なのだと。
信仰によって自分に言い聞かせているのです。
このこと自体は、詩篇42、43編で繰り返されています。
つまり、「主により頼もう、主こそが私の救いである」という告白です。
しかし、状況が違います。
42,43篇に比べると、その苦しみのレベルは、もっとひどいものになっています。
主なる神への信仰を失いそうなほどの、理不尽な苦しみがやってきているのです。
正しい信仰を持っているものが、間違った迫害を受けている。
この状況で、思い出したのが、なにか。
それが、主の働きだったということです。
4節の最後をもう一度味わってみましょう。
「これがあなたのお望みでした。」
新改訳聖書で見ると、この場所は「あなたが彼らを愛されたからです」と、訳されています。
この「望み」と訳された単語は、愛する、受け入れる、喜ぶ、などの意味を持っています。
1~4節の文脈では、主が祖先をカナンの地へ入らせた、その勝利は、主が、イスラエルを愛し、主がそれを望み、主がそれを受け入れたからだ、という風になります。
しかし、この4節を、明日の個所の最後に持ってきたらどうなるでしょうか?
主が、理不尽な苦しみをイスラエルに与え、まるで主が沈黙しているような、その状況こそが、主がイスラエルを愛し、主がそれを望み、主がそれを受け入れたから、としたらどうでしょうか?
詩編44篇のみそは、ここにあると思うのです。
イエス様こそが、最高度に、理不尽な苦しみを受けられました。
イエス様は、神ご自身でありながら、死をしのばれたからです。
その死は、まさに父なる神さまが、イエス様を愛していたからこその死であり、父が望まれた死であり、父が受け入れられた死でした。
この理不尽な苦しみ、神の死があったからこそ、私たちは今、大きな恵みを受けているのです。
そう、信仰に生きる者には、この理不尽な苦しみが必ず伴います。
むしろ、理不尽な苦しみがないのであれば、それは、信仰ではありません。
イエスキリスト信じているということだけで、理不尽さで満たされる世の中だからです。
その理不尽さは、確かに私にとっては、叫びたくなり、主がいらっしゃらないのではと疑いたくなり、もう駄目だとあきらめたくなるものかもしません。
しかし、その理不尽な苦しみを、主はどう考えられているのでしょうか?
なんと、主はそれを望まれ、それを受け入れられているのです。
何のために?
主の御心のために。主の愛のために。もっと素晴らしい恵みを与えるためにです。
私に与えられる輝かしい勝利が、主が望まれたがゆえであるならば、
同じく、
私に与えられる理不尽な苦しみも、主が望まれたがゆえである。
主が、この苦しみを受けることを望まれている!
この信仰を告白することこそ、どのような理不尽さをも乗り越える恵みがあふれる場所だと信じます。
何事も感謝しなさいとは、主が愛以外のなにものでもなく、愛する以外のどんな行動もすることが出来ないことを告白することです。
私は、今日、勝利を収めるのは、主が私を愛しているからです。
そして、私が今日、理不尽な苦しみを受けるのは、まさに主が私を愛しているからなのです。
信じ、感謝して歩む一日となることを期待します。