シリーズに通し番号を振ると、後で大変なことになりそうなのです(笑)
100回くらいには、収めたい気がします…
さて、今日は何について語りましょうか?
この科学やら聖書やらを語る時に、その人がどのような立場で語っているのかを、考えることは非常に有用だと思います。
どの立場からの発言であるのか、見えれば、その発言の真意を誤解なく受け取ることができる可能性が高まるからです。
では、特に聖書と科学を語るうえで、重要な立場はどのようなものがあるのでしょうか?
まず、それは基本的に4つに分かれます。このようです。
1、無神論(唯物論、唯脳論などバリエーションもあり)
2、不可知論(積極的、消極的)
3、理神論
4、有神論
この4つの定義があいまいな人もいて、非常に困るのですが、ひとつずつ丁寧に紹介しましょう。
1、無神論
この立場は、すべては偶然と長い時間によって出来上がったと考えます。
現行の科学というものは、この無神論の土台に成り立っています。
(これが、聖書と科学を考える上で、大きなポイントです。)
日本に実際に無神論者のように生活する人は、ほとんどいないと思います。
どこの雑誌を見ても「占い」が書いてあります。
形骸化したとはいえ、神社に行って七五三とか、初詣とか、福袋とか、熊手とか、祭りとか、あるじゃないでしょうか。
相撲だって、国技ですが、あれは(神道で言う)神前であることが基本です。
心霊写真も、めっちゃ好きですもんね。ホラー映画だって…
こういうのは、全部、無神論に矛盾します。
だから、本当の無神論者というのは、日本においては、ごくわずかのような気がします。
科学の最先端にいる研究者であったとしても、
「今日のラッキーカラーは赤だから、赤を身に着けたら実験が上手くいくかしら?」
なんていって、実験しているのです(笑) いや、マジです。
無神論の土台に立っている科学を、やっている人にあるまじき態度ですが、研究と実生活は違うのでしょう。
(自分の信仰と、科学における研究が密接な関係を持っていることは、後でテーマにしましょう。)
科学というのは、前述のとおり、この無神論を前提としています。
飛行機が飛ぶのは、まさに、流体力学によって計算することができる事象であって、
まさか、神の御手がそこで飛行機を支えているわけではないのです。
もしこんなことを言ったら、現代人として生きられません(笑)
「聖書を信じるってことは、このような非論理的なことを信じなければならないんだ!」っていう批判を聞きますが、それもまた誤解です。
これも一つの大きなテーマですが、聖書を信じるとは、非常に理性的な行為です。
でも、理性によって信仰には到達しないんですよ!
さて、基本的に、無神論的に思考しなければ、つまり、絶対者を排除しなければ科学は、成り立たないのです。
こういうわけで、科学を学んだ人は、聖書が信じられなくなるという現象が起きます。
これは当たり前です。その根本が全く違うのですから、衝突は避けられないのです。
アメリカで、進化論を公教育の場から追い出そうとする運動が起きました。
これは「さる裁判」と呼ばれるものですが、まさに聖書を学んでいた子供たちが、学校で進化論を学んで信仰を失ってしまったという事件がそこかしこで起こったために、親と教会が反発したわけです。
日本じゃ考えられない裁判でしょうが、アメリカでは、なんと公教育から進化論が姿を消した時代もあったんです。
ちなみに、現在では、ほとんどの州の公教育に進化論は取り入れられていると思います。
裁判で、逆に負けていったんですよね、創造論者たちが…。
(創造論者たちは、大失敗を犯したのですが、これも新しいテーマですね。)
もっとちなみにですが、アメリカの大学では、進化論を押し付けることによって信仰が傷つけられたと言って教授に対して訴訟を起こす例もあります。
これがもとになってできた映画が、「God is not dead.(邦題:神は死んだのか?)」です。
面白い映画ですので、ぜひ見てみてください。
ヤフー映画では、評価がボロボロですね。普通の人が見たって面白くないですもの(笑)。
この題名で最初の「God」は「G」が大文字であることがポイントです。
さて、いろいろわき道にそれましたが、戻しましょう。
無神論とは、思考から絶対者を排除し、すべてを偶然と時間において解決しようとする世界観です。
人間の生きる地平線には、人間の考えられる思考の中には、神は存在しないと考える立場です。
そして、先に行っておくと、この無神論は、有神論と全く矛盾しないのです…
これに関しては、また書きますが、とりあえずエーバハルトユンゲルの作業に関しての記事を見てください。
さて、無神論についてはこれぐらいで終わりたいと思います。